居合道の根本

◆居合は、「鞘の内」と呼ばれる。居合の勝ちは鞘の中にある。すなわち、抜かぬ前に吾が心法の利をもって敵の心を制圧し、技の起こりを封じ、体の働きを奪い取る。それでもなお敵、害意を失わず切りかかってくると、鞘放れの一刀、剣光一閃のうちにこれを倒すのが、居合の大精神である。・・・戦わずして勝つのが居合の精神と説く。

「居合とは人に切られず人切らず只受け止めて平らかに勝つ」との歌もある。

◆居合の根源は心法にある、といわれる。心法に始まり、抜刀に中し、心法に終わるのが居合である。と、説かれても、ああそうかと納得できない難しさがある。

心法といえば沢庵禅師のいう「不動智」が想起される。不動とは動かないことであるが、石とか木とかのごとくになるのでなく、一言でいえば、物に心をとどめないことである。物に心がとどまれば、物に心が動かされる。そこに迷いが生じる、というのである。

敵と相対したとき勝とうと一筋に思うこと、稽古で身に着けた技を出そうと思うこと、みな物に心をとどめることにほかならない。これは心の病であり、このような状態では、間に髪を入れぬ石火の技が出ようはずがなく、しなやかな体の運用がおこなわれるはずがない。

物に心をとどめなければ、天然の理にしたがって、敵の変化に迷わされずに体が応じ技が出る。ここに勝ちが存するというのである。その不動の境地にいたる道は修業。

◆居合の修業が剣道に利する一つは、手の内である。手の内の練が確かでなければ、正しい刃筋が生まれない。その二は、残心である。切ってなお心に油断を生じさせないことである。反面、剣道修業が居合に利することの一つは、現実の敵を相手にすることである。剣道の間合い、拍子を対敵居合に活かすことができる。敵のいないところを切っても居合足りえない。その二は拍子である。これは、剣道の眼目とされている機会、先などを含めたものである。「剣居一体」とは、よく聞く言葉である。

◆居合の基本で強調したいのは「目付」である。居合も修業がある程度進んでくると、仮想敵の心に目を付けることが求められる。宮本武蔵も観の目、つまり心眼に重きをおけと説いている。

◆居合の修業上の基本的心得に加えて、さらに「気迫」に心がけて修業することが肝要である。

紙本栄一編著「初伝 大森流」を参照。我が居合修行のために・・・。