剣道・居合道審査会寸評

居合道八段審査会寸評

「剣窓2023年1月号」掲載

1.技の中に仮想敵は見えず、形のみで攻めの気迫が欠けた演武が目立った。

2.正座の姿勢からの抜き付けは、上体を真っ直ぐに丹田に力を入れ、腹・腰の力で腰の据わった力強い体勢で抜き付けるが、これができていない。

3.鞘放れの一瞬に手首のひねりを利かせ、手の内の締まりで迫力ある冴えが出る。切り下ろしにしても力のみで切ると力みが生じ、腕だけで切ると右拳が「居付き」になる。リキまず溜とネバリで力を抜くところは力を抜くことを覚えるのも大切。

4.呼吸の乱れを見せず演武することが必要となる。合格者は安定した体幹で腰の据わったリキミのない手の内の利いた攻めの演武が随所に見られた。

5.日々の稽古の際に、常に技の中に仮想敵を意識し、攻める気持ちで、一刀ずつ全力で気力を集中させた厳しい修業を望む。

◆剣道七・六段審査会寸評

「剣窓2023年1月号」掲載

1.剣道では気剣体の一致。かけ声、剣先の攻防、打突前・時・後の姿勢、捨て切った打突等が求められるが、審査を意識してか、緊張してか、単に表から間合を詰め一緒に面を打ち合っている単調な場面が多く見られた。

2.言い換えれば表・裏・下を攻める、押さえる等の攻防が少なかった。

居合道七・六段審査会寸評

1.着装・礼法について、紋服着用の場合は事前に身に合うように直し、着慣れておくこと。

2.技では、形や刀勢にこだわり気剣体の一位ができていないため、思い切りの悪い居合となっている。気剣体の一致は最重要課題です。

残心

残心

武道における残心とは、技を決めた後も心身ともに油断をしないことである。

居合道では、技の終わったあとでも気を抜かないこと・・・「美しい所作」の継続で技がいきてくる。余韻を残す・・・究極の道へ。

 

              出典: フリー百科事典『ウィキペディアWikipedia)』

 

残心(ざんしん)とは日本武道および芸道において用いられる言葉。残身残芯と書くこともある。文字通り解釈すると、心が途切れないという意味。意識すること、とくに技を終えた後、力を緩めたりくつろいでいながらも注意を払っている状態を示す。また技と同時に終わって忘れてしまうのではなく、余韻を残すといった日本の美学と関連する概念でもある。

 

概念

だらしなくないことや気を抜かないことや卑怯でないことであり、裏を返せば「美しい所作」の継続ともいえる。

相手のある場合において卑怯でない、驕らない、高ぶらないことや試合う(しあう)相手があることに感謝する。どんな相手でも相手があって初めて技術の向上ができることや相手から自身が学べたり初心にかえることなど、相互扶助であるという認識を常に忘れない心の緊張でもあり、相手を尊重したり思いやることでもある。

生活の中では、襖や障子を閉め忘れたり乱暴に扱ったり、また技術職の徒弟で後片付けなどを怠ると「残心がない」や「残心ができていない」といって躾けとして用いられる言葉でもある。仕舞いを「きちっと」することでもある。ちなみに「躾け」とは「美しい」所作が「身」につくことを表した和製漢字である。

 

武道における残心

武道における残心とは、技を決めた後も心身ともに油断をしないことである。たとえ相手が完全に戦闘力を失ったかのように見えてもそれは擬態である可能性もあり、油断した隙を突いて反撃が来ることが有り得る。それを防ぎ、完全なる勝利へと導くのが残心である。

この精神を詠った道歌に以下のようなものがある。

折りえても 心ゆるすな 山桜 さそう嵐の 吹きもこそすれ[1]

(桜を手に入れたと油断するな。嵐が吹いてしまったらどうするのだ)

武道の中には、剣道・柔道・空手・弓道居合道など、技を行った後に特定の形(型 かた。体の構え)で身構える、相手との間合いを考慮して反撃方法を選ぶ、一拍おいて刀をおさめるといった一挙動を「残心」と呼ぶ。相手の反撃に瞬時に対応する準備と、更なる攻撃を加える準備を伴った、身構えと気構えである。これは、残心をより高いレベルに昇華し、一つの技を行う前・行っている最中・終えた後も引き続き一貫して維持される精神状態を体現したものである。芸道の残心と同じく、技を終えた瞬間に動作が終わるのではなく持続性(芸道でいうところの余韻)を持たせる。

たとえば弓道における残心は、矢を射た後も心身ともに姿勢を保ち、目は矢が当たった場所を見据えることである[2]剣道では、意識した状態を持続しながら、相手の攻撃や反撃を瞬時に返すことができるよう身構えていることを残心と呼び、残心がなければ技が正確に決まっても有効打突にならない。なぎなたの残心のルールは剣道とは異なるが、剣道同様、正確な攻撃であっても残心がないと無効とされる[3]。剣道の試合において一本取ったことを喜ぶ様(ガッツポーズなど)が見受けられれば、驕り高ぶっていて残心が無いとみなされ、一本を取り消されることがある。

空手における残心とは完全に意識している状態で、自分の周囲と敵を把握し、反撃の準備もできていることである。柔術における残心は、拳は繰り出すスピードより早く引き戻す、また柔道においても、相手を投げた後もバランスを崩さない、寝技への移行や当身技を意識するなど次の攻撃の準備ができていることを意味する[4]合気道においても、自分が投げたばかりの受け(相手)を意識しながら、万一再攻撃があった場合に備えて体を構えることを残心という。

武術における残心は、あくまで身構えに対する心構えの一つであり、流派によっては、前心通心残心を説いている[5]。現代では武器武道において残心がよく説かれるが、本来、心構えは残心だけではないことに注意がいる。

明治初期に流行した撃剣興行では、勝敗を誇張するために「引き上げ」(打突後に竹刀を片手で高く上げたり、飛び跳ねたり、相手に背を向ける動作)が横行し、残心が消失したとも言われている。また現在の柔道では、オリンピックなどで試合後に勝者がガッツポーズをするシーンが散見されるなど、残心が失われつつあるという。

 

芸道における残心

茶道における残心とは、千利休道歌に表れている。

何にても 置き付けかへる 手離れは 恋しき人に わかるると知れ[6]

(茶道具から手を離す時は、恋しい人と別れる時のような余韻を持たせよ)

また井伊直弼茶湯一会集[7]において、客が退出した途端に大声で話し始めたり、扉をばたばたと閉めたり、急いで中に戻ってさっさと片付け始めたりすべきではないと諭している。主客は帰っていく客が見えなくなるまで、その客が見えない場合でも、ずっと見送る。その後、主客は一人静かに茶室に戻って茶をたて、今日と同じ出会いは二度と起こらない(一期一会)ことを噛みしめる。この作法が主客の名残惜しさの表現、余情残心であると述べている。

日本舞踊における残心とは、主に踊りの区切りの終わりに用いられ、表現として「仕舞いができていない」ともいわれる。弓道と同じように最後まで気を抜かず、手先足先まで神経を行き渡らせ区切りの「お仕舞い」まで踊ることを指す。

藤平式呼吸法に学ぶ

 

呼吸法は剣道の極意である、と先達は言う。合気道名人の藤平光一氏の説く呼吸法に興味を持ち、実践してみたいと思っている。剣道・居合道の上達に向けて。

以下、藤平光一氏の呼吸法訓練の方法である。

 

呼吸法の極意

「出る息は天地(てんち)万世(よろずよ)に及び、吸う息は腹内の寸分の内におさまる」

これが呼吸法の極意である。出づる息、吐く息は天地いっぱいに広がっていくつもりで吐き、吸う息は腹内の無限小の一点におさめるつもりで吸う。腹内の一点は臍下だが、一般に言う臍下丹田とは違う。無限小でありながらゼロではない一点である。

★具体的な方法を説明しておこう。

正座して足の両親指が重なるようにする。両膝の感覚はちょうどこぶしが二つくらい入る程度に開く。両手は腿の上に乗せる。
 背筋を伸ばし、齊下の一点に心をしずめ、全身の力を抜く。前に書いた「天地の正位に立つ」姿勢だ。
 目を閉じ、口を軽く開いて「ハー」と静かに息を吐き出す。体の隅々の息を吐き切ってしまうイメージで行う。吐き切ったと感じたら、軽く上体を倒し、最後の息を静かに吐き出す。爪先の息まで吐き出すことを思い浮かべるといい。正式な時間で言えばこれが22秒。

吐き終わったら、上体を前に倒したままの姿勢で、鼻から「スゥー」と静かに息を吸い込む。爪先から脚、腰、下腹、胸と全身に息を送り込むことを思いながら十分に吸い込む。
体中に息が充満したら、上体を起こし、最後に静かに息を吸う。今度は頭に息を吸い入れるイメージである。

この息が充満している状態で5秒ほど臍か下の一点に心をしずめて待つ。その間に、酸素は全身をめぐるのである。これがまた22秒。そして、再び、息を吐き出すところから始める。

これが『藤平式呼吸法』だ。

吐くのも吸うのも自然に、出づる息は出づるに任せ、吸う息は吸うに任せる、という気持ちで行う。

              藤平光一著「言葉の氣力が人を動かす」より

「先達に学ぶ居合道の極意」


居合道修業上のポイントについて、先人の教えに学ぶことが、欠かせない。
ここに、拾い上げた教えを列挙し、平素の稽古を問い直す一助にしたい。

<礼儀(正しい態度・作法)>
1.    着装と作法も重要な点である。正しい着装こそその人の修業の深さを感じさせる。作法、礼法もしかりで、いかに心がこもっているか、品格の漂う立ち振る舞いが欲しい。
2.    開始線での立ち姿を見ると平素の修練の度合、つまり修業の練度を感じることができる。両足踵の下へ紙1枚敷いたつもりで立つ。臍下丹田に気が入り、さらに小胸が出て、項が「ビシッ」と生きてくる。
3.    正しい作法、特に座るときの姿勢や袴捌きで修業のあり方が判断できる。敵の機先を制するような座り方を心がけているか。
4.    着座するときは“前後左右に敵あり”との心構えで体の運用をすべきである。
5.    着座の際に足下を見たまま四方に気を配らず漫然と座るのを見かける。
6.    着座の動作が油断のない心と足遣いで座れたとき、初めて相手と居合わす姿となる。
7.    正座している姿が、臍下丹田に力をこめ、雄姿端然としているか、その姿から修業の深さが感じられる。

<技   前>
(鞘の内)
1.居合の極意は鞘の内にある。抜刀する前の気の攻め合い、つまり鯉口を切るまでが勝負である。抜かずして勝ちを得る教えを理解すること。

(抜きつけ)
1.    抜きつけは居合の中心生命である。遠山の目付、気勢充実、敵の機先を制し、序破急で抜いているか。抜きつけたとき、項が伸び、眼光は相手を捉えていて、上体は真っ直ぐであり、丹田に力がこもっていなければ、次の止めの切り付けにつながらない。
2.    抜き付けのときは、相手の殺気を知るや気を充満させ、項を立て自然に臍下丹田に力をこめ、左右の内股を締めながら両手を静かにかける。同時に腰を浮かせつつ両足爪先を立て、刀はおもむろに抜き出す。抜きつけたとき腰は相手に正対、上半身は四分六分の兼ね合いで四分は抜きつけた右の切り手、六分は左鞘引き。鞘引きは手で引き抜くことなく、胸の開きと脇の下を締めた左肘で強く引く気持ちで、鞘が背に一文字となるまで激しく引くとよい。
3.    「序破急」があるか。静かに→速度を速め→いっきに速度をつける、という緩急ある動きが剣先の勢いと冴えが生じる。
4.    剣先に冴えがあるか。鞘引きで決まるが、鞘引きは左手の方を強くし腰と一体にして行うことが大事である。力の割合は左手七分右手三分がよい。
5.    刀がよく働いているか働いているかどうかは、剣先に冴えがあるかないかで判断できる。剣先に冴えを生むには、まず上虚下実の体勢になっていることが大事である。そして左手での鞘引きと右手の連動を一体化させること。上虚下実の体勢ができれば物打ちに体重が乗っているので切り付け切り下ろしに冴えが生まれる。
6.    抜きつけ(抜き打ち)は、鞘引きから鞘放れまで淀みなく(序破急に則って)引き切ることが大事(袴の腰板まで引き切る)。抜きつけた後、鯉口が敵に見えないほどに握りこんでいるか。
7.    こめかみに抜きつけるとき、刀の切っ先を左耳に沿って後を突く気持ちで振りかぶっているか。振りかぶりの手掛は正中線上になっているか。

(切り下ろし)
1.    切り下ろしはとどめの一刀です。丹田に力のこもった気剣体一致での剣先の冴えのある強い切り下ろしが大切です。左手を中心に強く、手の内での切り下ろしを勉強すること。
2.    切り下ろしは両肩を下げ(沈身)諸手を頭上高く上段の位に取り相手の状況を見極め、右足を一歩踏み込むと同時に両肩を使って下ろしながら、手首を使い、剣先は大きく円を描きつつ手の内にて切り下ろす。小指、薬指、拇指球という順に握り締める。切り下ろす刀は左手主導で行うが、手の内の働きは左右同じように締める。
3.    切り下ろしの教えに「刀で切るな腕で切れ、腕できるな腰(腹)・足で切れ」とある。腰・足・手を一体にして全身の運用、特に腰を要とす。

(血振り)
1.    血振りした剣先は敵に向け、いつでも攻撃のできる体勢である。「いつもいかなる時も充分ですよ」という心のある剣心一体の居合腰になる。血振り後の足の踏みかえひとつにも意味があり、引きつける足は攻め足である。

(納刀)
1.    納刀に心の感じられない型のみの残心が多く、気迫が伝わってこない。納刀における残心は、懸待一致強い攻めが現れるように。
2.    納刀においては「抜くぞ、抜くぞ」と十分なる残心を示しながら納める。
3.    残心は品格を生む大事な要素である。一つの動作が終わって、次の技に移るまでの間に倒れた敵を見越し安全な位置まで移動して敵との縁を切ることも残心。身構え、気構えを保持し続けること。

(その他、所作についての教え)
1.    「居合とは抜くも納むも左から」の教えの通り、激しい抜きつけをしようと思えば、左の鞘引きを激しくしなければならない。左手の小指は袴の帯に強くあて、鯉口は後方に強く引く。切り下ろしは、物打ちでしっかり切る。刃筋正しく左手で重く切る。納刀は攻めと守りの手の内で静かに納める。
2.    居合に命が宿っているか、二つのポイント。一つは「手の内」の冴えであり、もうひとつは「仮想敵」への意識である。
3.    居合は腰で抜き、腹で切り、腹で納めるという教えがあるが、これは臍下丹田で呼吸せよ、ということだと思う。
4.    「気攻めを緩めるな、体勢が整うまで次の動作に行くな」の教えあり。気を緩めない方法として効果的なのが複式呼吸である。
5.    技に緩急強弱、序破急が見られるか。
6.    肩の力が抜けているか。肩の力は切り結ぶ瞬間に下腹部へ下ろすことを修得して欲しい。腹で抜き腹で切り、腹に収める。下腹に溜めた息は少しずつ大切に使うことを呼吸法で修得すること。
7.    足・体・剣の3さばき、相手を逃さぬ目付(居合道動作の四大要素)など練度を高めること。腰から動くことを覚えれば、自然と体と足は円滑に運びます。

<心 構 え>
1.    目は常に仮想敵を追っていなければならない。敵を追う活きた目となれば、技にも迫力を感じる。基本的には、勝ちを収めるまでは相手の顔面を中心にした目付。切り下ろし、血振り、納刀が終わって柄から右手を離すまでは、倒した相手に残心で目線を落とす配りが大切。仮想敵を意識し修練すること。「ただ、刀を抜き、納めるのが居合ではない」今、ここで敵とどのように闘っているか、」どう対応するか・・・そこに自分を置いて稽古すること。
2.    目線が常に敵に向けられ、床上に落とすことがない。
3.    「目付」も大事。瞬きしたり、目線を変えたり、目を泳がせないという、心の落ち着きがなければならない。
4.    技と技の間に気持ちに切れがなく、縁のつながった技として完了していること。
5.    間には緩急の間と心の間の二つがある。緩急の間は、技の状況に合った動作で、心の間とは心の中で動と静のバランスを整えること。これは呼吸法と関連している。
6.    道場以外でも稽古はできる。呼吸法、手の内、姿勢など日常生活で工夫する機会はいくらでもある。

<気・剣・体の一致>
1.    抜きつけと足を踏み出す動作が一致していなければならないが、右足を踏み出してから切り下ろす方が多い。特に「気と気迫が」満ちていること。

剣聖 羽賀凖一の教え(剣道・居合道)

 

                近著典彦著「最後の剣聖 羽賀凖一」より抜粋

◆羽賀凖一の教えの基本中の基本は「正しい姿勢・正しい呼吸」であった。羽賀準一は剣道でも居合でも、姿勢の「くずれ」を極度に嫌った。

 

<羽賀凖一の姿勢・呼吸に関する言葉>

・剣道・居合の基本はくずれないこと、すなわち、正しい姿勢である。

・下腹に力を入れると肩の力が抜ける(肩の力を下腹に落とす、とも言った。このとき心身の潜勢力は最高の状態となる)。

・肩の力を抜ける人は専門家でも少ない。

・正しい姿勢が乱れるや否や、呼吸は乱れる。

・肩の力が抜けるかどうかは平素の問題である。・・・姿勢・呼吸の平素の鍛錬。

・変化―正しい姿勢でいればいつでも変化できる。

・居合いの根本は正しい姿勢、正しい呼吸である。

羽賀凖一にあっては姿勢と呼吸は不可分である。正しい呼吸の伴わない正しい姿勢はなく、正しい姿勢でなければ正しい呼吸はできない、のである。

 

◆羽賀凖一の読んだと思われる全ての剣道書の内、準一の「心」の問題・「攻め」を忘れた問題に、直接示唆を与えるのは「天狗芸術論」であったと推定される。

該当箇所を抽出すると、

★技に習熟していなければ、いくら心が剛であるといっても、その心の働きに応えることはできない。技は気によって修練する。気は心の働きに応じて体を使うものである。だから、気は生き生きと活動して停滞することなく、剛健で屈しないことが肝要である。

★諸流に先という事がある。これもまた初学のために鋭気を助長し、惰気に鞭打つための言葉である。実は、心の本体が動揺しない状態で自分を失わず、浩然の気が身体に充満するような時は、いつも我が方に先があるのである。

★剣術もまた同様である。精神が安定し、気が和み、応用動作は無心で、技がその動きに自然に従う者は、その究極の原理に達した者である。しかしながら、初めの内はまず剛健闊達の気を養って、小ざかしい知恵を捨て、敵を却下に敷き、鉄壁といえども打ち砕くという、益荒男の気性でなければ、熟達して無心自然の究極の原理に達することはできない。そうでなければ、無心と思うものはただ全くの空っぽとなり、和みと思うものはただの惰気となるばかりである。

 

◆羽賀が愛読した「一刀斎先生剣法書」

<事理の概念を説く>

この書では技(目に見える)の領域を「事」と表記し、これに対し心(目に見えない)の領域を「理」という。

・・・そもそも当流(一刀流)剣術の要は事である。事を行うのは理である。ゆえに先ず事の実行を基本として、強弱軽重の動作からなる体のこなしを、よく自分の心と体に会得しその上でその事が、敵に応じて変化する理を十分明らかに認識すべきである。たとえ事の修業を積んだとしても、理を十分に知らなければ勝利は得がたい。また理をよく明らかに知ったとて、事に修業を積まない者がどうして敵に勝てようか。事と理とは車の両輪・鳥の両翼のようなものである。・・・「理」の究極は沢庵の言う「不動智」のようである。不動とは「動揺しない」こと。不動智から発せられる技こそが最高度の「事」である。

 

◆羽賀凖一は、呼吸法を、剣の技術の修得の極において、取り組むべき精神鍛錬の方法という。「呼吸法は」剣道のアルファにしてオメガである。刀の握り方から構え方、最も基本的な技から千変万化の技までを貫き、気あたりまで行き着く・・・まさに全格技にひろがる極意である、と。

 

◆「剣道の学び方」について

剣道の名人達人は長命である。なぜ長命か。いい稽古をするからである。脳髄・肺臓・心臓等に衝撃を与えない稽古、胃腸等もみくちゃにしないよう、十分腰の入った稽古、血液の循環・酸素の補給が順調で規則正しく行われる腹式呼吸に習熟した稽古、がそれである。別の言い方をすれば、古伝の水鳥の教えのように、いつも平らかに運動し、かつ精神は絶えず緊張していること。・・・稽古においては、必ず打とう・突こうということばかり心をめぐらしたりしてはいけない。ひたすら思い切って真剣に打ち込んでゆくべきである。ただ勝負にのみ関心を持つと、心は治まらず、気は荒んでいろいろな欠点を生じ打突の方法が正しくまとまらないものである。

 

◆修業の跡―諸先輩の教え

第1は「努力」、すなわちほかの人より何倍稽古をするか。

第2、よき指導者を求めること、即ち、むだの少ないこと。

第3、良き友を持つこと。

第4、剣法の古書について学ぶこと、である。

 

◆羽賀凖一に稽古をつけてもらった学生の印象

なんとも言えない迫力、圧倒感があった。物理でない心の世界の力というのはすごいと魅せられた。そのところがポイントでした。先生の言葉「若いうちは形のある世界の追求でいいんだ、しかし歳を取ったら形のない形のない世界を追求しなさい。見えないものを追求しないことには人生は不満足だよ」と。「一刀斎先生剣法書」を借りると、目に見える技の領域を「事(わざ)」といい、目に見えない心の領域を「理(理)」という。

◆心身の訓練・修養の魂とも言うべき、呼吸について

居合も「技」は大切だが、呼吸は一層大切である。人は生まれてから死ぬまで呼吸を休むわけにはいかない。だが、あまりにも身近なのでかえって忘れがちなのだ。

居合の習う始め、座して技を習うとき、技と技の間で三呼吸または四呼吸して、次の技をほどこす。居合はこのようにはじめから呼吸と取り組むのである。正しい呼吸をするにはまず正しい姿勢が必要で、体が曲がったり、傾いたりしては、正しい呼吸ができない。体を正しく扶持して、下腹部に充分力の入った状態を常時求めるように心がけなければ成らない。肩に力が入ると腹の力が抜けていると心得ねばならない。

★準一が弟子たちに説いた呼吸のすすめに白隠の「夜船閑話」がある。

呼吸法会得にもっともいいのは、就寝の時である。まくらは少し低い目のものをつかう。就寝で仰向けになり、両手をへそを囲むように揃えておく。足をわずかに開き、鼻から静かに息を吸い、口から静かに吐き出す。これを毎夜わずかな時間を割いて続けると自然下腹部に力が入るようになってくる。また、町を歩くとき、電車などでたっているとき・腰掛けている時などに、意識して姿勢を正し、下腹部に努めて力を入れ、呼吸を整える習慣を養っていただきたい。これは、「行動の禅」であると。

 

◆居合の演武について

居合の演武の際、床板に着眼して背を丸くしている姿を多く見かける。剣道の稽古や試合の際、打つ場所をみるのは初心者だけである。居合でも特定の場所を斬るとき以外は視線を下に向けぬよう気をつけていただきたい。

 

◆居合学びの奥義

・技を生かす根本は「心と体」一致することです。これには正しい姿勢と正しい呼吸が大切です。

・稽古は自得と不可分。「道は見るべからず、聞くべからず、その見るべく聞くべき者は道の跡なり。その跡によってその跡なきを悟る、是を自得という。学は自得にあらざれば用をなさず」と。

・慣れは稽古に数をかけることで、慣れの進むに伴って心にほがらかなゆとりができてくることは注意すべき要点である。心の落ち着きは稽古につぐ稽古によって起こる慣れの結果である場合が多いように思われる。

・ところが姿勢が悪い稽古だと進むどころか、やればやるほど変な癖が出て、ついに骨折り損のくたびれもうけになる。正しい姿勢が保持できるようになると、自然呼吸も正しくなり、気合いも充実してくる。

 

◆羽賀の大森流「初発刀」解説

1.座る。居合における正しい姿勢・正しい呼吸が始まっている。肩の力は抜け、下腹に力が充ちている。

2.十分気の充ちた時、左手を静かに鯉口近き部位を握り、左手親指の腹にて鯉口を切る。右手は鍔元近くを静かに握り、両膝を静かに立てると同時に刀を抜き始める。この場合、両足先は爪立てる。

3.この場合敵の動作に充分気を配り一分のスキのない態勢を作り、剣尖が鯉口まであと四,五寸位の時、刀を外方へ倒すと同時に横一文字に抜きつけると同時に右足を一歩踏み出す。

4.この間もこれからも下腹の力は充ち、肩の力は抜けている。正しい姿勢・正しい呼吸は常時保たれている。

(注)「横一文字」の鞘全体は水平である。そして鯉口を握る左手は「袴から小指を離れないような気持ちで充分後方に引」かれている。「この時、特に注意することは左肩と共に左手を引くことである」と。

5.抜きつけの体が極まった姿・・・刀の物打ちの刃先に全身の力が乗り、初発刀の抜きつけが完了する。

6.つぎの切り下ろしは、水平近くからしぼり(両手小指の締めと両手首のかえり)を受けた刀は水平をはるかに過ぎて切り下がる(真っ向から臍のあたりまで)。ここで「手がかえって」刀は水平に戻る。

吉川英治「宮本武蔵」抜粋

吉川英治宮本武蔵」抜粋

◆「お通どうじゃの、わしが挿(い)けた花は生きておろうが」

伊賀の壺に、一輪の芍薬を投げ入れて、石舟斎は、自分の挿けた花に見惚れていた。

「ほんに・・・・・」

とお通はうしろから拝見している。

「お殿さまは、よほど茶道もお花もお習いになったのでしょう」

「うそを申せ、わしは公卿じゃなし、挿花や香道の師についたことはない」

「でも、そうみえますもの」「なんの、挿花を生けるのも、わしは剣道で生けるのじゃ」

「ま」

彼女は、驚いた目をして、

「剣道で挿花が生けられましょうか」

「生かるとも、花を生けるにも、気で生ける。指の先で曲げたり、花の首を縊(し)めたりはせんのじゃ。野に咲くすがたを持って来て、こう気をもって水へ投げ入れる。――だからまずこの通り、花は死んでいない」

水の巻 芍薬の使者 三より

 

◆数多い武者修行の中で・・・功成り名を遂げ、一人前の禄取りになるほどの者は一万人中で二人か三人を出ないであろう。―――それでいて修業の苦しさと、達成の至難なことは、これでいいという、卒業の行き止まりがないのである。

火の巻 佐々木小次郎 四より

 

◆会い難いものは人である。この世は人間が殖えすぎているくらいなものだが、ほんとの人らしい人には実に会い難い。・・・そういう嘆きをもつたびに、彼の胸には沢庵が思い出された。・・・・・あの人間らしい人間を。彼はいつもそう思った。<中略>武蔵は、禅によって人生の最高へ住もうとする沢庵に対して、自分は剣によって、どこまで沢庵の上に至ることができるかということを、実にすばらしい宿望の一つとして胸の底に抱いているのだった。

火の巻 山川無限 三より

 

◆剣に形、作法などがあるように、茶にも、作法があると聞いている。

今も、妙秀のそれを、武蔵はじっと見ていて、

(立派だ)

と、思った。

(隙がない)

彼の解釈は、やはり剣に拠る。

達人が剣を把って立った姿というものは、さながらこの世の人間とも思われない。その荘厳なものを今、茶をたてている七十のすがたにも彼はみた。

(道――芸の神髄――何事も達すると同じものとみえる)

うっとりと彼は考えていた。・・・

・・・

「――光悦どの」

武蔵はいってしまった。

「武骨者です、実は、茶などいただいたことがないので、飲むすべも、作法も知らないのですが」

すると妙秀が、

「なんのい・・・」

と、孫でもたしなめるように、やさしく睨めた。

「茶に知るの、知らぬのという、知恵がましい賢らしごとはないものぞよ。武骨者なら武骨者らしゅう飲んだがよいに」

「そうですか」

「作法が茶事ではない、作法は心構え。――あなたのなさる剣もそうではありませぬか」

「そうです」

「心がまえに、肩を凝らしては、せっかくの茶味が損じまする。剣ならば、体ばかり固うなって、心と刀の円通というものを失うでござりましょうが」・・・

風の巻 生きる達人 六より

 

◆機を観るといえば、伝七郎は武蔵のすがたを眼の前にしてから、満身の肉に戦いの生理を起こしていたが、武蔵のほうでは、彼の肉眼に自分を示す前から、とうに戦いを開始しているつもりで、戦いの中身を持って臨んで来ている。

風の巻 雪響き 七より

 

◆こう刀を構えて持つのは――青眼身となって戦うのは――伝七郎は自分の不得手であることを知っていた。だから、肱を上げ、真っ向に持ち直そうと、先程から幾度となく、切っ先を上げかけたが、どうしてもあげられなかった。

――武蔵の眼が、その機を、待っているからである。

その武蔵もまた、青眼に刀をぴたりと――肱をゆるめに構えていた。・・・

伝七郎の刀が、時折、位置を改めようとして動いては止め動いては止めしているのと反対に、武蔵の手にある刀は、びくとも動かなかった。その細い刀背から鍔にかけて、僅かに雪がつもるほど動かずにあった。

風の巻 雪響き 九より

 

 

安房守邸で沢庵と武蔵久しぶりの邂逅

沢庵「そちらの修業―また、今の境遇など訊きたいが」と、問いただした。

「今もって、未熟、不覚、いつまで、真の悟入ができたとも思われませぬ。――歩めば歩むほど、道は遠く深く、何やら、果てなき山を歩いている心地でございまする」と、述懐した。

「む。そうなくては」と、むしろ沢庵は、彼の嘆息を正直な声として、欣びながら、

「まだ、三十にならぬ身が、道のみの字でも、分ったなどと高言するようじゃったら、もうその人間の穂は止まりよ。・・・後略

二天の巻 四賢一燈 三より

 

◆相手の権之助なる人間が一体何者か・・・

彼の振る棒には、一定の法則があるし、彼の踏む足といい、五体のどこといい、武蔵から見て、これは立派な金剛不壊の体をなしている。かつて出会った幾多の達人中にも考え出されないほど、この泥臭い田夫の体の爪の先までが、武術の「道」にかない、その道の精神力に光っているのだ。

空の巻 木曾冠者 四より

 

◆一,二年前から、彼は、

―――人に勝つ。

剣から進んで、剣を道とし、

―――おのれに勝つ。人生に勝ち抜く。

という方へ心をひそめて来て、今もなおその道にあるのであったが、それでもなお、彼の剣に対する心は、これでいいとはしない。

(真に、剣も道ならば、剣から悟り得た道心をもって、人を生かすことが出来ない筈はない)

と、殺の反対を考え、(よしおれは、剣をもって、自己の人間完成へよじ登るのみでなく、この道をもって、治民を按じ、経国の本を示してみせよう)

と、思い立ったのである。

青年の夢は大きい・・・。

空の巻 一指さす天 三より

 

◆小次郎との決闘の場面

元より武蔵も無念。

巌流も、無念。

戦いの場は、真空であった。

が、波騒の外――

また、草そよぐ彼方の床几場の辺り――

ここの真空中の二つの生命を、無数の者が今、息もつかずに見守っていたに違いなかった。

巌流のうえには、巌流を惜しみ、巌流を信じる――幾多の情魂や禱りがあった。

また、武蔵のうえにも。あった。・・・中略・・・

しかし、ここの場所には、そういう人々の祈りも涙も加勢にはならなかった。あるのは、公平無私な青空のみであった。・・・中略・・・

ふと。おのれッと思う。

満身の毛穴が、心をよそに、敵へ対して、針のようにそそけ立ってやまない。

筋、肉、爪、髪の毛――およそ生命に付随しているものは、睫毛ひとすじまでが、みな挙げて、敵へ対し、敵へ かかろうとし、そして自己の生命を守りふせいでいるのだった。その中で、心のみが、天地とともに澄みきろうとすることは、暴雨の中に、池の月影だけ揺れずにあろうとするよりも至難であった。

円明の巻 魚歌水心 七より   八へ続く

 

「生涯のうち、二度と、こういう敵と会えるかどうか」

それを考えると、卒然と、小次郎に対する愛情と、尊敬を抱いた。

同時に、敵からうけた、恩をも思った。剣をとっての強さ――単なる闘士としては、小次郎は、自分より高いところにあった勇者に違いなかった。そのために、自分が高いものを目標になし得たことは、恩である。

だが、その高い者に対して、自分が勝ち得たものは何だったか。

技か。天佑か。

否――とはすぐいえるが、武蔵にも分からなかった。

漠とした言葉のままでいえば、力や天佑以上のものである。小次郎が信じていたものは、技や力の剣であり、武蔵の信じていたものは、精神の剣であった。それだけの差でしかなかった。

円明の巻 魚歌水心 八より。

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上原茂男「剣道稽古歌集」

◆年取れば体力スピード落ちにけり

   年輪光る眼力胆力

 

◆心せよ打たねばならぬ時打たず

  打ってはならない時に打つ馬鹿

 

◆攻め合いは手先に非ず腰を出せ

  腰をば入れて打ちきる剣を

<大抵の人は手先だけで相手の正中線を攻めたり、剣先を押さえたり、払ったりしている。これでは本当の攻め合いとはいえない。攻め合いで大事なのは腰だ。腰が入っているかどうかが問題なのである。腰が入っていると体ごと攻めてこられるから威圧感を覚える。また腰が入っていれば打ち切ることもできるのである。>

 

◆攻めと云う言葉は気剣体優れ

  相手の構え崩すことなり

<前へ出るのが攻めと思っている人がいるが大間違いだ。そもそも剣道というのは相手の構えを崩すことから始まる。手元を上げさせたり、構えを開かせたりするには相手の気持ちを動かすことが大切だ。それができないのは攻めとはいえない。そしてその攻めは充実した気勢、正しい姿勢の気剣体にすぐれたものでなければならないので

ある。>

心すべき稽古の重要項目を振り返る

 

新型コロナ感染症が確認されてから2年。いつもの稽古ができない生活が続く。このブログの投稿も遠ざかっていた。久しぶりに剣道で重要なことを振り返ってみた。

 

第1に、姿勢である。

正しい姿勢から正しい打突が生まれる。自然体で、上半身に力みがなく下半身が充実し、いわゆる「上虚下実」の体勢を作ること。正しい構えからいつでも打突できる「勢い」を感じさせる活力が欲しい。

 

第2に、「攻め」である。

攻めのない剣道では、審査では評価されないし、試合においても有効打突につながらない。普段の稽古においても上達につながらない。さて、「攻め」を身につける方法、これは難題である。

その方法とは、形式的に言えば、「三殺法」がある。

・剣先による攻め→ここで大事なのは、自分の剣先が中心から外れないこと。

・気による攻め→充実した気勢で攻める。呼吸法や気合いが重要。

・技による攻め→常に先をとり、責め立てる。相手に思うように技を使わせない。

いずれも、鍛錬の積み重ねによって、体得するのみである。もちろん、研究・工夫もおろそかにできない。

 

剣道の教え「攻めて・崩して・捨て身」が永遠の目標か!