剣聖 羽賀凖一の教え(剣道・居合道)

 

                近著典彦著「最後の剣聖 羽賀凖一」より抜粋

◆羽賀凖一の教えの基本中の基本は「正しい姿勢・正しい呼吸」であった。羽賀準一は剣道でも居合でも、姿勢の「くずれ」を極度に嫌った。

 

<羽賀凖一の姿勢・呼吸に関する言葉>

・剣道・居合の基本はくずれないこと、すなわち、正しい姿勢である。

・下腹に力を入れると肩の力が抜ける(肩の力を下腹に落とす、とも言った。このとき心身の潜勢力は最高の状態となる)。

・肩の力を抜ける人は専門家でも少ない。

・正しい姿勢が乱れるや否や、呼吸は乱れる。

・肩の力が抜けるかどうかは平素の問題である。・・・姿勢・呼吸の平素の鍛錬。

・変化―正しい姿勢でいればいつでも変化できる。

・居合いの根本は正しい姿勢、正しい呼吸である。

羽賀凖一にあっては姿勢と呼吸は不可分である。正しい呼吸の伴わない正しい姿勢はなく、正しい姿勢でなければ正しい呼吸はできない、のである。

 

◆羽賀凖一の読んだと思われる全ての剣道書の内、準一の「心」の問題・「攻め」を忘れた問題に、直接示唆を与えるのは「天狗芸術論」であったと推定される。

該当箇所を抽出すると、

★技に習熟していなければ、いくら心が剛であるといっても、その心の働きに応えることはできない。技は気によって修練する。気は心の働きに応じて体を使うものである。だから、気は生き生きと活動して停滞することなく、剛健で屈しないことが肝要である。

★諸流に先という事がある。これもまた初学のために鋭気を助長し、惰気に鞭打つための言葉である。実は、心の本体が動揺しない状態で自分を失わず、浩然の気が身体に充満するような時は、いつも我が方に先があるのである。

★剣術もまた同様である。精神が安定し、気が和み、応用動作は無心で、技がその動きに自然に従う者は、その究極の原理に達した者である。しかしながら、初めの内はまず剛健闊達の気を養って、小ざかしい知恵を捨て、敵を却下に敷き、鉄壁といえども打ち砕くという、益荒男の気性でなければ、熟達して無心自然の究極の原理に達することはできない。そうでなければ、無心と思うものはただ全くの空っぽとなり、和みと思うものはただの惰気となるばかりである。

 

◆羽賀が愛読した「一刀斎先生剣法書」

<事理の概念を説く>

この書では技(目に見える)の領域を「事」と表記し、これに対し心(目に見えない)の領域を「理」という。

・・・そもそも当流(一刀流)剣術の要は事である。事を行うのは理である。ゆえに先ず事の実行を基本として、強弱軽重の動作からなる体のこなしを、よく自分の心と体に会得しその上でその事が、敵に応じて変化する理を十分明らかに認識すべきである。たとえ事の修業を積んだとしても、理を十分に知らなければ勝利は得がたい。また理をよく明らかに知ったとて、事に修業を積まない者がどうして敵に勝てようか。事と理とは車の両輪・鳥の両翼のようなものである。・・・「理」の究極は沢庵の言う「不動智」のようである。不動とは「動揺しない」こと。不動智から発せられる技こそが最高度の「事」である。

 

◆羽賀凖一は、呼吸法を、剣の技術の修得の極において、取り組むべき精神鍛錬の方法という。「呼吸法は」剣道のアルファにしてオメガである。刀の握り方から構え方、最も基本的な技から千変万化の技までを貫き、気あたりまで行き着く・・・まさに全格技にひろがる極意である、と。

 

◆「剣道の学び方」について

剣道の名人達人は長命である。なぜ長命か。いい稽古をするからである。脳髄・肺臓・心臓等に衝撃を与えない稽古、胃腸等もみくちゃにしないよう、十分腰の入った稽古、血液の循環・酸素の補給が順調で規則正しく行われる腹式呼吸に習熟した稽古、がそれである。別の言い方をすれば、古伝の水鳥の教えのように、いつも平らかに運動し、かつ精神は絶えず緊張していること。・・・稽古においては、必ず打とう・突こうということばかり心をめぐらしたりしてはいけない。ひたすら思い切って真剣に打ち込んでゆくべきである。ただ勝負にのみ関心を持つと、心は治まらず、気は荒んでいろいろな欠点を生じ打突の方法が正しくまとまらないものである。

 

◆修業の跡―諸先輩の教え

第1は「努力」、すなわちほかの人より何倍稽古をするか。

第2、よき指導者を求めること、即ち、むだの少ないこと。

第3、良き友を持つこと。

第4、剣法の古書について学ぶこと、である。

 

◆羽賀凖一に稽古をつけてもらった学生の印象

なんとも言えない迫力、圧倒感があった。物理でない心の世界の力というのはすごいと魅せられた。そのところがポイントでした。先生の言葉「若いうちは形のある世界の追求でいいんだ、しかし歳を取ったら形のない形のない世界を追求しなさい。見えないものを追求しないことには人生は不満足だよ」と。「一刀斎先生剣法書」を借りると、目に見える技の領域を「事(わざ)」といい、目に見えない心の領域を「理(理)」という。

◆心身の訓練・修養の魂とも言うべき、呼吸について

居合も「技」は大切だが、呼吸は一層大切である。人は生まれてから死ぬまで呼吸を休むわけにはいかない。だが、あまりにも身近なのでかえって忘れがちなのだ。

居合の習う始め、座して技を習うとき、技と技の間で三呼吸または四呼吸して、次の技をほどこす。居合はこのようにはじめから呼吸と取り組むのである。正しい呼吸をするにはまず正しい姿勢が必要で、体が曲がったり、傾いたりしては、正しい呼吸ができない。体を正しく扶持して、下腹部に充分力の入った状態を常時求めるように心がけなければ成らない。肩に力が入ると腹の力が抜けていると心得ねばならない。

★準一が弟子たちに説いた呼吸のすすめに白隠の「夜船閑話」がある。

呼吸法会得にもっともいいのは、就寝の時である。まくらは少し低い目のものをつかう。就寝で仰向けになり、両手をへそを囲むように揃えておく。足をわずかに開き、鼻から静かに息を吸い、口から静かに吐き出す。これを毎夜わずかな時間を割いて続けると自然下腹部に力が入るようになってくる。また、町を歩くとき、電車などでたっているとき・腰掛けている時などに、意識して姿勢を正し、下腹部に努めて力を入れ、呼吸を整える習慣を養っていただきたい。これは、「行動の禅」であると。

 

◆居合の演武について

居合の演武の際、床板に着眼して背を丸くしている姿を多く見かける。剣道の稽古や試合の際、打つ場所をみるのは初心者だけである。居合でも特定の場所を斬るとき以外は視線を下に向けぬよう気をつけていただきたい。

 

◆居合学びの奥義

・技を生かす根本は「心と体」一致することです。これには正しい姿勢と正しい呼吸が大切です。

・稽古は自得と不可分。「道は見るべからず、聞くべからず、その見るべく聞くべき者は道の跡なり。その跡によってその跡なきを悟る、是を自得という。学は自得にあらざれば用をなさず」と。

・慣れは稽古に数をかけることで、慣れの進むに伴って心にほがらかなゆとりができてくることは注意すべき要点である。心の落ち着きは稽古につぐ稽古によって起こる慣れの結果である場合が多いように思われる。

・ところが姿勢が悪い稽古だと進むどころか、やればやるほど変な癖が出て、ついに骨折り損のくたびれもうけになる。正しい姿勢が保持できるようになると、自然呼吸も正しくなり、気合いも充実してくる。

 

◆羽賀の大森流「初発刀」解説

1.座る。居合における正しい姿勢・正しい呼吸が始まっている。肩の力は抜け、下腹に力が充ちている。

2.十分気の充ちた時、左手を静かに鯉口近き部位を握り、左手親指の腹にて鯉口を切る。右手は鍔元近くを静かに握り、両膝を静かに立てると同時に刀を抜き始める。この場合、両足先は爪立てる。

3.この場合敵の動作に充分気を配り一分のスキのない態勢を作り、剣尖が鯉口まであと四,五寸位の時、刀を外方へ倒すと同時に横一文字に抜きつけると同時に右足を一歩踏み出す。

4.この間もこれからも下腹の力は充ち、肩の力は抜けている。正しい姿勢・正しい呼吸は常時保たれている。

(注)「横一文字」の鞘全体は水平である。そして鯉口を握る左手は「袴から小指を離れないような気持ちで充分後方に引」かれている。「この時、特に注意することは左肩と共に左手を引くことである」と。

5.抜きつけの体が極まった姿・・・刀の物打ちの刃先に全身の力が乗り、初発刀の抜きつけが完了する。

6.つぎの切り下ろしは、水平近くからしぼり(両手小指の締めと両手首のかえり)を受けた刀は水平をはるかに過ぎて切り下がる(真っ向から臍のあたりまで)。ここで「手がかえって」刀は水平に戻る。