五輪書「水の巻」

水の巻
武蔵はこの巻で、精神と肉体の両面から、自己をいかに鍛錬するかについて、詳細に説いている。「心の持ち方」からはじまって体の姿勢、目の付け方、刀の持ち方、構え方、ふり方、足づかい等すべて多年の稽古と実践から生まれただけに、迫力と含蓄に富んでいる。

◆兵法心持の事
兵法の道においては、心の持ち方は平常の際と変わってはならない。平常も、戦闘の際も、少しも変わることなく、精神をひろやかに、まっすぐにし、むやみと緊張せず、またたるむことなく、偏った心をもたず,心を静かにゆるがせて、そのゆるぎが一瞬もゆるぎ止まぬよう、よくよく気をつけることである。
体が静かな時にも心静止せず、体がはげしく動く時にも心は平静にたもつこと(静動一如)。心は十分に充実させ、また、余計なところに気を取られぬようにせよ。
にごりのない、ひろやかな心で、高い立場から物事を考えること。知識をも、精神をも、ひたすらにみがくことが、なによりも大切である。

◆兵法の身なりの事
体のかまえは、顔はうつむかず、あおむかず、まげず、目をきょろきょろさせず、額にしわをよせず、眉の間にしわをよせ、目の玉を動かさぬよう、またたきをしない気持ちで、目をややすぼめるようにする。
おだやかな顔つきで鼻すじはまっすぐに、やや、おとがいを出すつもり、くびはうしろの筋をまっすぐ保ち、うなじに力を入れ、肩から全身には力の入れ方を同じようにする。
双方の肩を下げ、背筋はまっすぐに、尻を出さず、ひざから足先までに力を入れ、腰がかがまぬように腹をはる。

◆兵法の目付と云事
戦闘の際の目くばりは、大きく広くくばるのである。
観、すなわち物ごとの本質を深く見きわめることを第1とし,見、すなわち表面のあれこれの動きをみることは二の次とせよ。
目の玉を動かさぬままにして、両脇を見ることが大切である。

「遠き所を近く、近き所を遠く」という教えもある。

◆太刀の持やうの事
太刀のもち方は、親指と人差し指をやや浮かすような心もちとし、中指はしめず、ゆるめず、薬指と小指をしめるようにして持つのである。手のなかにゆるみがあるのはよくない。
太刀をとる時には、いつも敵を切ることを心において持たねばならない。
敵を切る時にも、手の具合は変わることなく、手がすくむことがないように持つこと。もし敵の太刀を打ったり、受けたり、おさえたりすることがあっても、親指と人差し指の調子をややかえるくらいのつもりで、まず何よりも相手を切るのだという気持ちで太刀をとるのである。

◆足つかひの事
足の運びは、爪先をやや浮かし、きびすをつよく踏む。足の使い方は、場合によって大小遅速の相違はあるが、ふつうに歩むように自然に使うこと。飛ぶような足、浮きあがった足、固く踏みつけるような足の三つはいずれもよくない。
足のつかい方にあって、陰陽ということが大切とされている。これは、片足だけを動かすのではなく、切る時も、退く時も、受ける時も、右左、右左と足を運ぶのである。くれぐれも、片足だけを動かすことのないよう、十分注意するようにせよ。

◆五方の構の事
五つのかまえとは、上段、中段、下段、右のわき、左のわきをいう。
このように五つにわけるけれども、すべて人を切るためのものである。かまえには五つよりほかにはないが、どのかまえにせよかまえそのものにはとらわれず、なにより敵を切ること(目的)を考えよ。

武芸の極意にいう、かまえの神髄は中段にあると。中段こそかまえの中心である。

◆太刀の道と云事
太刀をやたらに早く振ろうとするから、かえって太刀の道を誤り、自由にふれなくなるのである。太刀をふるには、ふりよいように、静かにふる気持ちが必要である。どんなときにも大きくひじを伸ばし,強くふることが太刀を動かす道である。
むりやりに早く振ろうとすれば、かえって刀の機能を殺してしまい、切ると云う目的を果たせない。

◆五ツのおもての次第、第一の事
五つのおもてについて、その第一。第一のかまえは、中段をとり、太刀の尖端を敵の顔につけ、敵に相対する。敵が打ちかけてくる時、太刀を右にはずしておさえる。また、敵が打ちかけた時は、切っ先がえしで打ち、打ちおろした太刀をそのままにひっさげ、敵がさらに打ってくれば下から敵の手をたたく。これが第一のおもてである。

第二の事、第三の事第4の事、第五の事・・・省略。

◆有構無構のおしえの事
構えがあって、構えがないという心得について。そもそも、太刀を一定の形にかまえるということは、あるべきことではない。しかしながら、五の方向(上、中、下、右左のわき)に向けることを構えといえばそのようにいうこともできる。これを構えがあって、ないというのである。
太刀を持つには、敵との関係により、その場所のより、状況に応じ、どの持ち方をしようとも、すべて敵を切りやすいように持つことである。
ともかく、太刀をとっては、どのようにしても敵を切ることが眼目である。

◆敵を打つに一拍子の打の事
敵を打つのに、一拍子の打ちといって、敵と我とが打ちあえるほどの位置をしめて、敵がまだ判断の定まっていないところを見抜き、自分の身を動かさず、心もそのままに、すばやく一気に打つ拍子がある。
敵が太刀を、引こう、はずそう、打とうなどと思う心が決まらぬうちに打つ拍子が、一拍子である。この拍子をよく習得し、きわめて早い間で、すばやく打つことを鍛錬せよ。

◆二のこしの拍子の事
「二の腰の拍子」というには、自分が打ち出そうとしたせつな、敵の方がより早く退いたようなときは、まず打つとみせ、敵が一時緊張したあとたるみが出たところを、つづいてすかさず打つのである。これが、二の腰の打ちである。

◆無念無想の打と云事
敵も打ちかかろうとし、我も打とうと思う時に、体も打つ態勢をとり、精神も打つことに集中し、手はきわめて自然に、加速をつけて強く打つのである。これを無念無想の打ちといって、最も大切な打ちであり、しばしば出会うものである。よくよく習得して、鍛錬すべきことである。

◆流水の打ちと云事
「流水の打ち」とは、敵と我とが五分五分になってせり合うとき、敵が早く引こう、はずそう、はねのけようとするのを、こちらは身も心も大きく持ち、太刀はこれに従うように、できるだけゆっくりと、よどみのあるように、大きく力強く打つのである。

◆縁のあたりと云事
こちらが打ち出すとき、敵は打ちとろう、はねのけようとするのを、こちらは一打ちで、頭をも、手をも、足をも打つ。
太刀筋一つで、一気に、どこをも打つと云うのが「縁のあたり」である。

◆石火のあたりと云事
「石火のあたり」(きわめてすみやかな動作をいう)とは、敵の太刀とわが太刀とが、くっつくほどの状態で、わが太刀を少しもあげることなく、強引に打つのである。これには足も強く、体も強く、手も強く、その3か所の力により、すばやく打たねばならない。

◆紅葉の打と云事
「紅葉の打ち」とは、敵の太刀を打ち落としておいて、太刀をとりなおすことである。

◆太刀にかはる身と云事
「太刀にかわる身」ということは、逆にいえば「身にかわる太刀」ともなろう。打ちかかってくる敵の状態に応じて、まずわが身をうちこむ態勢となし太刀はそれより遅れて敵を打ちもむのである。

◆打とあたると云事
「打つということ」と「あたる」ということは全く違う。「打つ」というのは、どのような打ち方にせよ、心にきめて、確実に打つことをいう。「あたる」というのは、ただぶつかったというほどのものであり、たとえ非常に強く当たって、敵がたちまち死ぬほどであっても、あたりはあたりである。打つというのは、心に決めて打つことである。

◆しうこうの身と云事
秋猴の身とは、手を出さぬという心がまえである。敵に対して、わが体をよせていくとき、少しも手を出す心をもたず、敵が打つより早く、体をよせつけていく呼吸である。

◆しつかうの身と云事
これは、うるし、にかわでつけたように敵の体にぴったりとくっつき、離れぬ呼吸をいう。

たけくらべと云事
たけくらべというのは、どんな場合でも敵に体を寄せ付ける際、わが体がちぢむことがないように、足をも、腰をも、くびをも伸し、敵の顔と自分の顔をならべ、背たけをくらべれば、自分の方が勝つと思うほどに、体を十分伸ばし、つよく寄りつくことが大切である。

◆ねばりをかくると云事
これは敵も打ちかけ、こちらも打ちかけるときに、こちらの太刀を敵が受けた場合、こちらの太刀を敵の太刀にくっつけるような心持で、体を入れていくことをいう。

◆身のあたりと云事
あたりとは、敵のまぎわにとびこみ、体で敵にぶつかることである。自分の顔をややそむけ、自分の左の肩を出し、敵の胸にぶつかる。

◆三ツのうけの事
三つの受けがある。
その第一。敵のきわに入っていく時、敵が打ち出す太刀を受けるのに、自分の太刀で敵の目を突くようにし、敵の太刀を自分の右側にはずして受ける。
その第二.突き受けといって、敵が打ちかけてくる太刀を、わが方は敵の右の目を突くようにし、敵のくびをはさむようなつもりで突きかけて受けるのである。
その第三。敵が打ってくる時、わが方が短い太刀をもって入る時には、受けることは気にせず、わが左手で、敵の顔を突くようにして入り込むのである。

◆おもてをさすと云事
顔をさすというのは、敵味方の太刀が五分五分になった時に、たえず敵の顔を自分の刀の尖で突く心でいることが肝心だと云うのである。

◆一ツの打と云事
この「一つの打」という呼吸によって確実に勝ちをえる。ことができるしかし、これは、武芸を十分にまなばなければ、その道を理解することはできない。

※武蔵は「今日は昨日の我に勝ち、明日は下手に勝ち、後は上手に勝つと思い・・・」と一歩一歩のたゆまぬ修練を説く。そして、たとえ、どのような敵に勝つことがあろうとも、もし、原則の習熟によったものでないならば、本当の勝利ということはできないとも。

神子 侃訳「五輪書