五輪書「風の巻」

風の巻

この巻は他流を批判する事によって二天一流の考え方をより明確にしている。

◆他流に大きなる太刀を持事
他流において大きな太刀を好むものがあるが、わが一流の兵法からすれば、このような流儀を弱者の兵法と判断するものである。太刀が長ければ有利になるとは、兵法を知らぬものの言い草に過ぎない。

◆他流においてつよみの太刀と云事
そもそも太刀に強い太刀、弱い太刀などということは、あるべきものではない。強く強くと思ってふる太刀は粗暴な使い方となる。粗暴な太刀づかいによっては勝ちを得ることは困難である。また、太刀の強さばかりを心がけ、人を切るにあたって、無理に強く切ろうとすればかえって切れなくなるものである。試し切りの場合にも、強く切ろうとすれば結果はよくない。

◆他流に短き太刀を用る事
短い太刀だけを使って勝とうとするのは真実の道ではない。短い太刀をことさら愛用するものは、敵がふるう太刀の間をぬって、飛び込もう、つけいろうとねらうのであり、このような偏った心がけはよろしくない。

◆他流に太刀かず多き事
他流において数多くの太刀の使い方を人に伝えているのは、武芸を売りものにし、初心者を「いろいろな太刀の使い方を知っているものだ」と感心させるためであろう。これは兵法にあって最も厭うべき精神である。
わが兵法にあっては心も姿勢もまっすぐにして、敵の側をねじらせ、ゆがませて、相手の心が曲がったところを打って勝ちを得ることをおもんじているのだ。

◆他流に太刀の構を用る事
太刀のかまえ方を第一に重視するのは、まちがった考え方である。そもそも「構え」ということは、敵がいない場合のことである。
物事の「構え」というのは、動かされぬ場合に用いることばである。城をかまえるとか、陣をかまえるなどというのも、人にしかけられても、じっと動かされぬような状態をいいあらわしている。ところが、兵法勝負の道では、何事も先手先手をと心がけるものである。これに反して構えというのはしかけられるのを待っている状態だ。
人に先手をうたれた時と、こちらからしかけた時とでは、たたかいの有利さは倍ほどもちがうように思われるものである。

◆他流に目付と云事
他流では目付と称して、流儀々々により或いは敵の太刀に目をつけるもの、手に目をつけるもの、または顔、足などに目をつけるものがある。このように、取り立ててどこかに目をつけようとすれば、それに惑わされて、兵法のさまたげとなるものである。
たとえば、蹴鞠をする人は,鞠に目をつけているわけでないのに、さまざまな蹴鞠の技法において、たくみに蹴ることができる。
兵法の目のつけどころと云えば、それは相手の心に目をつけるのだといえよう。
細かな部分々々に目をつけることによって、大局を見落とし、心に迷いを生じて確実な勝利を取り逃がしてしまうものである。

◆他流に足つかひ有事
他流では足のふみ方に、浮足、飛足、はね足、ふみつける足、からす足などといって、いろいろと、足を素早くつかう法がある。わが兵法からみるならば、これらはすべて不十分なものと思われる。
わが兵法においては、たたかいのときといえども、足づかいは平常の場合と変わることは。ない。ふだん道を歩むように、敵の拍子に応じ、急ぐ時、静かな時と、体の状況に合わせて、足らず、余らず、足が乱れることのないようにすべきである。

◆他の兵法にはやきを用る事
兵法にあって、見た目の速度を云々するのは本当の道ではない。拍子に合っていれば、他人にはごく普通に見えるのであって、ものごとの拍子が合わないから、早く見えたり遅く見えたりするのである。
何の道にせよ、上達した場合には決して見た目に早いとはうつらぬものである。
すべて早くしようとすれば「急げば転ぶ」というように、間にはずれて。しまうものである。さりとてもちろん、おそいこともよくない。
総て上手な人のなすことは、いかにも悠々としていて、しかも間をはずさぬものである。何事につけても、よく熟達した人のすることは、いそがしそうに見えぬものである。

神子 侃訳「五輪書