高齢者と剣道

高齢者と剣道
剣道の修業に終わりはない、とよく言われる。・・・高齢者の私もこれを実感しながら剣道を続けている。課題は、精神力を身につけること。

森曹玄著「剣と禅」の一節「白井亨とその師」は次のようにいう。
「世間に剣客は星の数ほどおりますが、年40以上になると皆一様に衰えてしまいます。もし剣の道が若い間、体力の旺盛のうちだけのものなら、それはあたかも鳥の蹴り合いのようなものとちっとも変りはありません。・・・<中略>・・・ある日、かねて指導を受け、尊敬している同門の先輩、寺田宗有先生を訪ねました。「剣の進境はどうか」と尋ねられた。「マア、一つ試してみよう」と言われるので木剣を持ちました。63歳の高齢ではとても剣は使えまい?と思いました。
私は得意な技で、直ちに相手の肺肝に迫ろうとしましたが、どうしたことか、寺田先生の従容として迫らず、静かにかざしている木剣が、私の頭から全身を蔽うようで、そのものすごい気合に圧倒され、身体は委縮し、汗のみ流れて、夢を見ているようで、手足の措き所とてはありませんでした。・・・わたくしは先生が、その精妙を得たわけを尋ねました。寺田先生は「見性悟道の外はない」といって、じゅんじゅんとして私の修業の非なる点を指摘されました。私は、はじめて従来の疑問が氷解したような気がしてきました。
その後、容易に正しい道に入れそうにありません。そこで「内観練丹の法」修めました。

丹田を練る、ということか。>
このように白井は師の寺田によって、肉体的な力が衰えても、年とともにますます深くいよいよ高く進む剣境のあることを知って、かねての疑問や煩悶が一掃されたのであるが、同時に自らも内観練丹の法によって赫機を工夫したのである。・・・つまり丹田に心気が充実すれば、それがおのずから木剣たると真剣たると問わず、峰先から、精神的統一力ともいうべき一種の放射能を放つようになることを云ったものであろう。
剣の道とは技術でもなければ体力でもない。「主とするものはこの赫機真空のみ」である。と。<後略>
心身統一、丹田を練る・・・奥の深い稽古に一歩でも近づきたいものだ。